<由来>
正徳年間(1711~1715)京上賀茂別雷大神の御分霊を勧請したと言われ、村総鎮守として古来から五穀豊穣、家内安全祈願の参詣者が多い。鳥居の額は青銅製で「武雷大明神 源義敦拝書」と刻まれ、1784年(天明4)8月に西野・貝塚・粟生の惣氏子が奉納したものである。義敦は清和源氏義光流の佐竹氏で、秋田藩主である。12歳の時に痘瘡を患い、この平癒を霊験あらたかな社として江戸に聞こえていた当社に祈願したようで、義敦は前記の額奉納の翌年卒しているので、里人から題字の揮毫を懇願されたときは既に発病しており、前述の因縁と病の本復を願ってそれを承諾したものと思われる。当社には1337年(永和3)の銘がある鰐口が所蔵されていたそうで、その創建はかなり古く、例祭に奉納される獅子舞・囃子も口伝では安永年間(1772~1780)に始まるとされており、町の無形民俗文化財に指定されている。