概要

1480年代、戦国大名酒井定隆の家臣団が、九十九里浦の未開地に開墾の鍬をおろす。九十九里町真亀下・藤ノ下・不動堂・西野下など。現在の県道一宮片貝線の附近。(『九十九里町誌上巻』p465~)

1594年、豊臣秀吉が片貝地区の土地を調査する。太閤検地。(『九十九里町誌上巻』p481~)

江戸幕府が開かれると、本町は1大名領分・2旗本の知行所・3南北町奉行組与力給地・4天領(幕府直轄地)として支配されるようになった。(『九十九里町誌上巻』p488~)

江戸時代初期、紀州(和歌山県)の漁師が九十九里浜で鰯網漁をしていた。これを「旅網」という。(『九十九里町誌中巻』p257~)

元禄の大津波により「旅網」は衰退し、代わって地元の有力者が鰯網漁をするようになった。後にいくつかの「大地曳網主」となって干鰯の生産を行った。江戸中期以降、九十九里浜はイワシ漁の地域、干鰯の産地として全国に知られるようになった。(『九十九里町誌中巻』p263~)

粟生村の「大地曳網主」飯高家は、財力の一端を文芸や教育に使い、学者や文人墨客を優遇した。「いわし文化」の開花である。『灞陵集』、妙覚寺内文人墓碑。(古川力『九十九里浦と伊能忠敬』崙書房、古川力著作集『九十九里の研究』崙書房、p471~546)

測量家伊能忠敬が、本町小関の網主家で出生する。後に測量で九十九里浜の生地を訪れる。(『九十九里町誌下巻』p1083~)

幕末期、小関の大村屋で世直しと自称する「真忠組」事件が発生する。(『九十九里町誌上巻』p990~)

明治初期、本町の地域は松尾藩(太田氏・・太田道灌の子孫)領となる。廃藩置県まで。(『松尾町の歴史 特別編』松尾町 p4~10)

明治中期イワシ漁が、大地曳網から沖合で漁をする「揚繰網(あぐりあみ)」へと移行していく。(『九十九里町誌中巻』p565~)

明治40(1907)年、竹久夢二が新聞記者として作田地区に来遊。紀行文『涼しき土地』にこの地の様子を載せた。これを記念して昭和41(1966)年作田川河畔、漁港の近くに「宵待草詩碑」が建てられた。

明治末期の43(1910)年7月、中西月華(忠吉)を中心とする有志団体「向上会」が、片貝海岸に「海水浴場無料休憩所」を開設する。(『九十九里町誌上巻』p1135~)

「向上会」は、文化人を東京から招いて講演会を開催する。内村鑑三・山路愛山・エミール・シルレル(ドイツ人神学者)・押川春浪など。(『九十九里町誌上巻』p1135~)

大正6(1917)年7月、中西月華の招きで小説家徳冨蘆花が粟生海岸に避暑滞在する。翌年、小説『新春』を発行。その中に滞在中の生活を「九十九里」という題で発表している。

大正15(1926)年、九十九里鉄道(通称軌道)が開通。昭和36(1961)年まで東金片貝間を結ぶ。

昭和9(1934)年、詩人で彫刻家の高村光太郎が、妻智恵子の静養先真亀海岸に度々見舞う。後に詩「千鳥と遊ぶ智恵子」になる。この詩を刻した詩碑が、昭和36(1961)年、鈴木美好等土地の青年有志によって真亀海岸に建てられる。

昭和23(1948)年、米軍高射砲訓練基地が真亀海岸に設置される。朝鮮戦争に備えての訓練基地であった。通称「キャンプカタカイ」。昭和32(1957)年まで存続した。(『九十九里町誌上巻』p1217~)

昭和30年、片貝町・豊海町・鳴浜村作田地区が合併して「九十九里町」が誕生。

昭和44(1969)年、片貝漁港完成。漁船が初入港。これまでの浜辺での出漁・帰漁の重労働が解消される。(『九十九里町誌中巻』p622~)

令和4年12月26日稿  齊藤 功(九十九里郷土研究会会長)